奇才 中沢新一『チベットのモーツァルト』の感想

奇才 中沢新一『チベットのモーツァルト』の感想

あまりにおもしろくて、読み終わってすぐにまたリピートしてしまった、中沢新一の『チベットのモーツァルト』の感想。この『チベットのモーツァルト』は論文集で、初出をみるとだいたい81年から83年の間に発表されたもの。中沢新一が20代の終わりにチベット密教スンニ派のラマに弟子入りした時の体験を、フランス現代思想のフィルタを通して書かれているものが多いです。

瞑想のテクニックって言葉

チベットの密教ではドラッグをつかわずにただ瞑想(ゴム)のテクニックによって現実を変容させたり意識の深層領域に下降したりする訓練をおこなう。

引用元:中沢新一『チベットのモーツァルト』P21  ISBN 4-06-159591-1

今振り返るとそんなたいした事でもないけど、密教の修行をテクニックだと捉えている事がとても新鮮で、はじめに驚きました。この後も、密教テクニックとか観想のテクニックとかいう単語が頻出しますし、この本は「空性」「究竟次第」「法身」「ブラフマ孔」などの単語と、「記号論」「構造」「エクリチュール」などの単語が同居する、類似の少ない種類の本です。

チベット密教の修行は、瞑想と身体的テクニックを用いて、ドラッグによって至るような一種の精神状態(現実の変容や深層意識への下降)へ到達する事を可能にするそうで、中沢新一はそのような精神状態における幻想風景に記号論的解釈を加えているのですが、現実体験としてその幻想風景を経験した中沢新一の言葉の身体性は強烈で、同時代にこれに遭遇すると、感化された人は多かったのではないでしょうか。僕なんかもただ単純に、瞑想のテクニックを習得してぇよ、って思いました。

中沢新一はオカルトだとか言われているらしく、また事件の発覚する前のオウム教団を褒めたとして批判されてるみたいですが、僕自身はいまいちその事に実感がありません。中沢新一の言葉の求心力は認めても、一人の個人をオウム事件と関連して批判するには局所的すぎるし、そこにはもっと大きな時代の流れがあったと思います。

あとがきで著者自身は、とりたててカリフォルニア文化から影響を受けた記憶は無いとわざわざ語っています。カリフォルニア文化ってのはサブカルチャー、特にニューエイジ思想の事を言っていて、ニューエイジとは1960年あたりから流行りだしたヒッピーとも相関関係の強い、東洋思想やシャーマニズム、ドラッグやセックス、菜食主義やエコロジーなんかを包括するオカルトとも言われてるような思想です。映画では『イージー・ライダー』とかが有名。日本ではオウムに代表されるようなカルト宗教やスピリチュアルな世界観と、スローライフ的な生活様式やヨーガなどの身体的プラクティスに二分されて流れているように思います。

ボーリングの深度をあげる

個々の論文の主張することを理解出来たとは言い難いのですが、この本には一つの大きな全体像があるように思いました。それは、理性的な・ヨーロッパ的な二元論をネガティブに捉えていて、象徴界、想像界に去勢される以前の、誕生の時、混沌とした場、物理っぽく言えば相転移の瞬間みたいなもんを肯定します。

例えばクリステヴァの「別の笑い」。ラブレーやスウィフトの笑いと対比して、クリステヴァの言うフィリップ・ソレルスの小説『H』にあふれる笑いを東洋的笑いと結びつけます。

彼女がここで「別の笑い」と呼んでいるものは、意味の構築性や構造性と文字通り結びついている笑いである。それは記号という不在の場所に送り返されることによって生ずる反作用的(ルサンチマン)な笑いではなく、意味の構築力がおこるまさにその地点で即座にはじけとぶ、パラドックスを肯定するような明晰な笑いなのである。つまり、ラブレー的哄笑にみられるように、ポジションえおしっかり定めた「人間」がすでに構築ずみの体系を笑いとばす批判の笑いとちがって、この「別の笑い」はポジションというものがきめられたとたんにふきだしてしまうのである。おまけにそこには、スウィフト的嘲笑のように意味が構築されるために体系ののずっと下の方で抑圧やら隠蔽やらがおこなわれなくてはならないという事実を暴いて、嘲笑してみせるような不健全なところがない。

引用元:中沢新一『チベットのモーツァルト』P61  ISBN 4-06-159591-1

また、例えば浄土教の念仏「南無阿弥陀仏」と密教のマントラ(真言)「オーム・マニパメド・フーム」を対比します。

称名念仏における「南無阿弥陀仏」は、念仏主体が阿弥陀仏との鏡像的な対象関係のなかで宙吊りになっている状況に、文字どおりとりつかれている。ところが、密教のマントラの場合には、もともとそうした極限的な対象関係が前提にされていないのである。称名が念仏主体と対象のとてつもない距離の意識につき動かされているとすれば、密教のマントラはそのような距離の意識が生まれでようとする瞬間に、つまり浄土のヴィジョンがその「物質性」とともに世紀していたあの空間性の起源の場に、ゆるやかにたちもどっていこうとしている。それは鏡像的にせよ、象徴的にせよ、
いっさいの対象関係をすりぬけていくような能動性をそなえている。「想像界」がマントラにとりつくことは不可能なはずである。

引用元:中沢新一『チベットのモーツァルト』P124  ISBN 4-06-159591-1

上記に二例を簡単に表で表すとこんな感じ。

中沢新一が ネガティブに捉えるもの ポジティブに捉えるもの
理性的な・ヨーロッパ的な二元論 象徴界・想像界に去勢される以前、誕生の時、混沌とした場、相転移の瞬間
クリステヴァの「別の笑い」 ラブレー的哄笑(構築された体系の批判)
スウィフト的嘲笑(体系の底にある隠されたひずみを暴く) クリステヴァの笑い・東洋的笑い
(意味構築の立ち上がる場で起きる、パラドキシカルな笑い)
念仏 南無阿弥陀仏
(主体と仏の対象関係が前提) オーム・マニパメド・フーム
(いっさいの対象関係をすりぬけていくような能動性)

中沢新一がポジティブに捉えるものを一言で言えば、「芸術」でしょうか。その発生の瞬間をおさえるために、言葉の外側、無意識の向こうに果敢に挑んでいくのは、実にかっこいいです。

参照・参考

松岡正剛の千夜千冊『対称性人類学』中沢新一

photo by babasteve