大江健三郎『万延元年のフットボール』感想

大江健三郎『万延元年のフットボール』感想

大江健三郎『万延元年のフットボール』読みました。

『万延元年のフットボール』はノーベル文学賞受賞者の大江健三郎作品の中でも最も評価の高い作品の一つ。1967年の作品。

ノーベル賞受賞の決め手となった作品だと言われている『個人的な体験』と並んで、大江健三郎の脳障害を持った息子にかかわる実体験を経て書かれた作品であり、また、大江の前期作品群と後期作品群との主題的な橋渡し・乗り越え点の役割を持つ小説。

『万延元年のフットボール』

物語の概要は、
片目の見えない主人公の蜜三郎とアル中の妻の菜採子は脳瘤で障害を持った子供が生まれて精神的に参っている。さらに主人公の唯一の友人は顔を朱色に塗り肛門に胡瓜を挿したまま首を吊った。そんな折にアメリカから帰ってきた革命家の弟鷹四の誘いで、主人公夫妻は故郷の四国の谷間の村に戻り新しい生活を始める。狡猾で閉鎖しきった冬の谷間の村は雪のために外界から遮断される。その村で万延元年に一揆を率いた曾祖父の弟に自分をなぞらえた鷹四は、村の若者を集めスーパーマーケットを略奪するが・・・。
ってかなり良いトコも端折ってるけど、こんな感じ。

物語の構造は日本文学史でも類を見ないほどの重厚さと緻密さだと思った。カルト的な閉鎖空間で占める暴力、抑圧・差別・貧困・性の開放と挫折、アイデンティティー・ルーツ探しと同一化・神格化、インセスト・タブー、障害児。一つの小説にこんなにもうまく色々とつめこめるんだなーと。

で、物語もすごいけど、さらに文体もすごい。印象論で申し訳ないけれども、難解で乾いていて知的に突き放した言葉の箱に、性的にネバネバした感じの不透明なヴェールが全体を覆っているような文体。小説冒頭から取り憑かれるよ、この文体には。

以下冒頭部分より引用。

夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内蔵を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持ちで望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。力をうしなった指を閉じる。そして、躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような、躰の各部分において鈍く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける。それがいったいどのようなものの、どのようなときの姿勢であるか思いだすことを、あきらかに自分の望まない、そういう姿勢で、手足をねじまげて僕は眠っていたのである。

引用元:大江健三郎『万延元年のフットボール』 p7

大江健三郎と集団自決

あと、『万延元年のフットボール』とは関係無いけど、大江健三郎の政治姿勢と沖縄の集団自決について。

大江は自身で戦後民主主義者を名乗るだけあって、古くさい牧歌的左翼主義者みたい。政治的な問題についてどんどん意見を表明する作家だった。

『沖縄ノート』では赤松嘉次大尉が沖縄渡嘉敷島で集団自決を強いたとしており、それが事実と異なるとして大江健三郎と岩波書店を赤松嘉次の遺族らが訴えた「集団自決」訴訟がある。

この裁判がきっかけで、文部省教科書検定において教科書から「集団自決」が削除される求めがあり、それに反発した沖縄県民が11万人のデモを行った。

こういった沖縄の、まるで日本全土の熱を吸いとったかのような政治的行動に対する局所的なアツさは、気持ち悪さとゆうか病理的な政治問題を孕んでいると思うので、そこら辺について今度書きたいと思ってる。

大江健三郎からちょっと離れてしまった感があるが、沖縄の病理は、岩波・朝日または進歩的知識人、丸山眞男とか川島武宜とかまたは大江とかの功罪でもあると思うので。

参考・参照

万延元年のフットボール 書評: ぬる風呂: 小説の腑(はらわた)を喰らう鬼 [2]

大江健三郎の少女趣味的絶対平和主義: 池田信夫 blog 大江健三郎という病

沖縄教科書抗議集会 参考ニュース: 沖縄教科書抗議集会 参加者は「4万人強」 「11万人」独り歩き(産経新聞) - Yahoo!ニュース

photo by amao(Beijing)