高橋源一郎『日本文学盛衰史』感想

高橋源一郎『日本文学盛衰史』感想

高橋源一郎『日本文学盛衰史』を読みました。初出は『群像』に連載の1997〜2000年。2001年に刊行された作品。

日本の近代文学成立期である明治時代を背景に、文学に命を捧げた文豪達を現代的な風俗を取り入れパロディーにした小説。全体として一貫しているのは明治時代について書かれてあるとゆう事だけで、章ごとの繋がりは全くと言っていいほど無いので、いくつかの短篇・中編を纏めた形として読むこともできます。

女子高生と援助交際しブルセラ店長になる石川啄木だとか、AV監督になる田山花袋とかが出てくるし、著者の高橋源一郎が胃潰瘍で入院し生死を彷徨った事を、夏目漱石の修善寺の大患と重ね合わせパロディ化した文章の横には、高橋源一郎の潰瘍が映し出された胃カメラ写真がドカンと載せられてる。

同じく明治時代の文豪を取り上げた作品に、谷口ジロー・関川夏央の『坊ちゃんの時代』って傑作漫画があって、こちらは比較的真面目なトーンの漫画なんだけど、『日本文学盛衰史』の方はのらりくらりと不真面目にお茶を濁しながら進む感じです。

WHO IS K ?

一番おもしろかったのは、漱石の『こころ』の謎解きを行う「WHO IS K ?」って章。ちなみにこの章には『坊ちゃんの時代』原作の関川夏央の名が出てくる場面もあります。

「WHO IS K ?」では、漱石が小説を書いた時に謎を隠したんじゃないか?って考察から端を発して、『こころ』の登場人物である、「私」「先生」「K」の果たす役割が入れ子のように重複していることと、「K」とは一体誰なのかとゆう問題についてかかれています。

結局、高橋源一郎は「K」とは誰々なのだ!とゆうようなはっきりとした結論を述べるわけではなく、しかし、読み手の全員が K=石川啄木 だとゆう印象をもつように物語を語る書き方をしています。この辺りの結論とゆうお茶を濁して物語に仕立てる手法が、個人的にはこの作品を象徴してるんじゃないかと思ったり。

「私」「先生」「K」の果たす役割が入れ子構造とゆうのは、『こころ』の登場人物には固有名詞が無いことと、小説後半部分が「先生」から「私」にあてた遺書であり、我々読み手がその遺書を読むとゆう作りになっていること、遺書は「先生」が書いたものなのでその遺書の文中で使われる “私” とは「先生」を指す人称であること、が関係していると高橋源一郎は述べます。

『こころ』後半部分の文中に使われる “私” とは若かりし「先生」の事を指すのに、我々読み手は前半部分で使われた “私” である「私」と取り間違えてしまう、もしくは若かりし「先生」と「私」を心象の中で重ね合わせてしまう。

若かりし「先生」=「私」であり、それは、若かりし「先生」と「K」の関係と「私」と「先生」の関係をイコールで結びます。
つまり、
若かりし「先生」:「K」=「私」:「先生」
であると。

このあたりの “私” とゆう代名詞を媒介として「先生」の現在と過去の関係性を繋ぐとゆう、小説の根幹をなすトリックを解き明かすのおもしろかった。