舞城王太郎『阿修羅ガール』感想 その1

舞城王太郎『阿修羅ガール』感想 その1

舞城王太郎『阿修羅ガール』読みました。第16回三島由紀夫賞受賞、2003年刊行の作品。新潮文庫版には「川を泳いで渡る蛇」って短篇も収録されている。

筒井康隆が褒める文体

舞城王太郎は『煙か土か食い物』ってミステリ小説でメフィスト賞受賞デビューし、この作品で三島賞を受賞してるし、別作品では芥川賞の候補にもなってる。エンターテイメントと純文学を往来してるような作家。結構いろんな所で評価されてるし、そのうち芥川賞取るっぽいな。

で、やっぱこの人の文体は相当おもしろい。筒井康隆も三島賞選評で、
小説では初めての成功例と言ってよいほど現代女子高生女の言葉が生き生きと使われていて、ひとつの功績として残したい作品だ。
みたいな事を言ってる。

少女漫画にはよく現代女子中学生や女子高生の言葉遣いがそのまま使われていて、いずれもリアリティがあり、刺戟的で面白い。これは小説の中でも使われることがあるが、少なくとも三島賞の対象となるような作品において使われたときはなぜかわざとらしく不自然で、たいていは失敗に終っている。だが今回受賞した舞城王太郎の「阿修羅ガール」では、これが女主人公の一人称として生き生きと使われている。長篇の大部分がこの女の子の一人称だから、作者には相当の自信があったのだろう。文章が今までになく躍如としていて、これは初めての成功例と言ってよく、ひとつの功績として残したい作品だ。

引用元:第16回三島由紀夫賞選評

そして別の二つの文体

『阿修羅ガール』は女子高生が主人公で、ストーリーは三部構成になってる。筒井は、全体で主を占める女子高生主人公の一人称の視点で使われてる文体の事を褒めてるんだけど、第二部の中の「森」と「グルグル魔人」の章での異なった文体の使い方も印象的だった。

「森」は童話のような文体で、北欧の少女シャステインの一人称で書かれてある。この章を読んでる時にだけ、ノスタルジックな風景がやけに鮮明に頭の中で映像化されるなと思い、小説を読み終え巻末を見ると、この「森」の場面はラッセ・ハルストレム監督の映画『やかまし村の子どもたち』『やかまし村の春・夏・秋・冬』にインスパイアされたと書いてある。

この映画を見た事は無いんだけど、まさに読み手に映像を喚起させる文章で、深いモミの木の森が頭の中のスクリーンに映し出されるようだった。その映像は現実世界そのものとゆうよりは、スクリーンやテレビの中に映し出されている映像の様に思えた。虚構の映像を喚起させる文章だったのも印象的。

その直後の「グルグル魔人」の文体は「森」との落差でさらに興味深い。「グルグル魔人」では、引き篭もりで母親に暴力をふるってばかりいるダメ人間の見本みたいな無職の男の一人称視点で書かれている。無職の男が母親にカツカレーを買って来させた場面から引用してみる。

あ、今ごろ帰ってきやがった。おっせ〜。マジあいつペナルティの意味ねーよ。
「コラババア!おせーよ!」
《ごめんね、カツカレー、近くのコンビニになかったのよ》
「てめーちゃんと走った?…歩いてっただろ。まあいいやそれよこせよ。はい。じゃあそこ立って」
あ、グルグルキックの振り付け考えてねーや。まあいいや。
「板尾創路の、どこまでやるの、キーック!」
あ、ババアの頭から、また血が…血が、血が〜。どーでもいいっす。
とりあえすカツカレー食お。
うめ〜。でも食いきれね〜。
残しとこ。あとで食お。
あ〜。腹いっぱい。もーいいいや。
引用元:舞城王太郎『阿修羅ガール』 新潮文庫P289,P290

この文体、このアホさ加減にはある種のリアリティー、2ちゃんねるの向こう側に存在しそうな人物のリアリティーが描かれている。第一部ではネット掲示板の「祭り」から発展して実際に暴動が起こり、何人もの無関係な人間が殺される事件が発生していて、無職の男はこの掲示板の常連でもある。

個人的には、女子高生のしゃべり言葉よりも、このネットをとりまく環境や人物の描写を含む文体のリアリティーが一番興味深く、新鮮だった。ただ、このリアリティーはかなり局所的な時空間に極端に限定された、つまり世代的かつコミュニティー的な範囲の狭いリアリティーでもある。その限定にコミット出来る人間にとっては、女子高生のしゃべり言葉と比べてよりリアルに感じるのではないだろうか。

このように舞城が文体を三つも使いわけるのはどうしてだろうか?それは世界を肯定するためなのではないのだろうか。
舞城王太郎『阿修羅ガール』感想 その2 へ続く

参考・参照

『阿修羅ガール』が受賞した第16回三島由紀夫賞の審査員達の選評

photo by soham_pablo